ラレコ山への道 小野木豊昭 古典空間への誘い
コラーレ倶楽部
アクティブグループの部屋
COLARE TIMES
【其の弐拾弐】ザ・忠臣蔵ナイト<1>
2002年11月
お待たせ致しました!!「ザ・忠臣蔵ナイト」……私、小野木豊昭が満を持して黒部の皆さんにおとどけする企画の決定版です。
「時は元禄十五年、小雪降り敷く師走の十四日。今は亡き、殿の恨みを晴らさんと、所は本所松坂町、討ち入る浪士は四十七士!」ご存じ、松の廊下の刃傷から吉良邸への討ち入りまでの名場面を、日本の伝統“語り芸”「義太夫→落語→浪曲」でつづります。出演は、人間国宝竹本駒之助をはじめとして三遊亭圓彌、東家浦太郎、現代の名人たちです。しかもそのナビゲート役として、皆さんもよーく知っているお馴染み○●アナウンサーが登場! 一晩で忠臣蔵がわかり、日本の伝統語り芸を堪能できる! これを観ずして伝統芸能は語れない、イヤこれを観ればあなたは立派な【通】です!「伝統の単なる“再現”ではなく、現代そして未来へ、エンターテイメント&アートとして“再生”する!」そんな思いを一気にカタチにした伝統芸能エンターテイメントの“極め付け”です。
さて、今回「古典空間への誘い」は少々趣向を変えてクイズ形式。全問正解者にはコラーレから特製携帯ストラップを……差し上げません。題して「ザ・忠臣蔵クイズ」。これに答えて12月7日の夜を100倍楽しみましょう!!!
Q01)浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかるとき、何と言ったでしょう?
Q02)吉良上野介は体のどこを斬られたでしょう?
Q03)浅野内匠頭が残した辞世の句は?
Q04)事件を知らせる使者は、赤穂に到着するまで何日かかったでしょう?
Q05)大石内蔵助の若いときのあだ名は?
Q06)四十七士の一人、堀部安兵衛が名を挙げた事件とは?
Q07)内蔵助の放蕩生活(茶屋遊び)……芝居では祇園の何茶屋?
Q08)討ち入り当日浪士たちのユニフォームは?
Q09)吉良方の死者は何人?
Q10)この事件を扱った歌舞伎の演目は何と言うでしょう?
番 外)そもそも何で「忠臣蔵」って言うの?
A01)
松の廊下で立ち話中の上野介の背後から小刀を抜き、「この間の遺恨、覚えたるか」と振り向いた上野介に斬りかかった。江戸城中での抜刀は厳罰必死であった。
A02)
額と背中。一太刀目は烏帽子の金具に当たり、二太刀目は逃げる背中から斬りつけたそうだが、いずれも軽傷であった。
A03)
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を 如何にとやせむ」 この歌を残して田村右京大夫邸の庭先(武士にとっては屈辱)で午前五時ごろ執行された。
A04)
江戸から赤穂まで約620km。当時、通常は17日ほどかかったといいますが、このときの使者は、何と5日間でぶっちぎったそうです。
A05)
昼行灯(あんどん)。大石内蔵助良雄は万治二年(1659)生まれ。この事件までは平凡な人物という定評。役に立たない昼間の明かり、という意味。
A06)
安兵衛はもともと越後新発田藩の武士。その後浪人して江戸に住んでいるとき、知人の高田馬場の仇討ちに助太刀したのを、 浅野家江戸留守居役堀部弥兵衛に見込まれて婿養子になった。
A07)
いわゆる内蔵助の放蕩生活は、当時生活していた京の山科に近い伏見の撞木町あたりが多かったそうである。芝居では京の祇園の一力茶屋。
A08)
動きよさから火事場に向かう武家の火消し役に近い身なりに揃えたという。討ち入り当日は前日の雪が残り、月も満月に近く、松明がなくても明るかったという。
A09)
討ち入りは2時間ほどで終わり、吉良方の死者は16人。浅野の浪士たちは傷を負っても死者はでなかった。
A10)
『仮名手本忠臣蔵』。初演は寛延元年(1748)、大坂道頓堀の竹本座にて人形浄瑠璃にて初演。のち歌舞伎に移入された。時代を室町時代の『太平記』、 舞台を鎌倉に設定。大石内蔵助は大星由良之助、吉良上野介は高師直。
番 外)
大石内蔵助をリーダーとするプロジェクトの「忠臣たちを集めた蔵」。「仮名手本」は四十七士を仮名のいろは四十七文字にたとえた ……さらに初演は事件からちょうど47年目。
(2002年11月 COLARE TIMES 掲載)