ラレコ山への道 小野木豊昭 古典空間への誘い
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COLARE TIMES
【其の八拾参】「笑う門には福来る」考
2014年9月
今年も、笑うに笑えないほど“熱い”夏でした。
笑ってる場合ではない状況下、「笑う門には福来る」という言葉を自身に投げかけ、まずは言葉で笑いの受け皿を作り、敢えて笑いを求めて行動する。笑いを受け入れ、自らも笑うことで、私たちは心身共に「バランス」の回復に努めつつ日々生きているのだと思います。そして、本当に腹が立つのも、悲しいのも、みっともないのも、おかしいのも、可愛いと感じるのも、すばらしいと感嘆するのも、改めて振り返るとそのほとんどが人間そのものに、またその所業に対する感情のようです。
常にバランスの回復を求める私たちに「笑い」を提供してくれる芸能は多々ありますが、様式や型をもった伝統芸能として、まず挙げられるのは『落語』と『狂言』でしょう。観客と等身大の登場人物が、日常繰り返される諸行為を、喜怒哀楽の感情と共に思い切りデフォルメして表現(再現)することで、「熊さん、八っつぁん、与太郎」も「太郎冠者、次郎冠者、山伏」も、そして私たちも「皆誰だって同じなんだよ!」と、生活者として人間として自らのアイデンティティを再認識し、心の隙間が埋まるわけです。隙間が埋まればまた明日から頑張れる。
先年亡くなった立川談志師匠が、「落語とは“人間の業”の肯定である」と常々述べていました。業とは元々備わっていて消すことのできない人間の本能や欲望を言います。落語という芸能の「現代社会における存在の必然性」を見事に表現した言葉であると思っています。片や狂言師・野村万作さんも萬斎さんも、自著やさまざまなインタビューの中で、狂言を歴史や型・様式から説明するのではなく、「人間肯定・人間賛歌の劇」と説いておられます。思うに、「自他を共に認め受け入れる=人間賛歌」の循環が各所に生まれたら、お互いが傷つけ合うことのない、まさに豊かで成熟した社会の成立へと向かえるでしょう。
ゆえに、明日へ糧となる「笑い」を着地点とする芸能に接することで、あるがままの自分と対峙できるようになり、その結果、他者との積極的なコミュニケーションを可能足らしめる……はずです。
この数年、大学での授業中、学生の反応が気になります。表情に変化がないのです。授業後、個人的に「つまらなかった?」「何か反論でもあるのかな?」などと聞くと、「とってもおもしろかったです!」という応え。あらゆる世代を問わずお話をする機会をいただきますが、実は世代を問わずこの傾向が進んでいるように思われてなりません。感情が表情に「出る」のではなく、周囲の雰囲気を計りつつ意識して「出す」時代になってしまったようです。
笑うことで身体的にも病理的にも大きな効用があることは、生理学、医学両面から証明され、「笑い」はすでに治療にも用いられています。悲しむより、怒るより、笑っていたい。できれば常に笑っていたい。同時に相手の笑顔も感じていたい、と痛切に思う今日この頃です。