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COLARE TIMES
【其の百七】鎌倉殿との決別! 義経の北陸逃避行
2022年7月
夏草や 兵どもが 夢の跡
言わずと知れた松尾芭蕉『奥の細道』(元禄15年(1702年)刊)。元禄2年(1689年)、江戸の深川を出発して1ヵ月半ほど後、奥州・平泉で詠まれています。源頼朝より追討命令を受けた藤原泰衡によって討たれた義経ら武将の昔を偲びつつ、人の世のはかなさを詠んだ一句です。
能、人形浄瑠璃、歌舞伎、そして義太夫節や長唄をはじめとする多くの三味線音楽の中では、源頼朝、源義経、武蔵坊弁慶、静御前……鎌倉時代という新たな時代に向かう激動の中を生きた人々が、虚実とり交ぜてさまざまな角度から描かれています。
北陸と深く関わるのは何といっても『勧進帳』でしょう。源義経は各所に張り巡らされた包囲網の中、弁慶ら数少ない家来たちと山伏に変装して逃避行を続けます。北陸道の安宅の関で待ち構えるのは関守・富樫左衛門。厳しい尋問に対して弁慶は、白紙の巻物を勧進帳(東大寺への寄付を募る公認の趣意書)に見せかけ、一気に読み上げて疑いを解きますが、荷物運びに扮した義経に疑いがかかり、追い詰められた弁慶は義経を金剛杖で散々に打ちつけます。厳然とした身分社会の中で主君を助けるために必死の行動に走る弁慶と、その痛切な思いに触れて関所の通行を許す富樫。緊張感溢れるドラマが次々と展開されます。
室町時代に生まれた能の演目『安宅』は、江戸時代…元禄15年(1702年)、初代市川団十郎が歌舞伎の世界にとり込んで以来たびたび演じられました。そして天保11年(1840年)、江戸歌舞伎のトップスターであった七代目市川団十郎が、“市川家のブランド”の演目として「歌舞伎十八番」を定めるにあたり、『勧進帳』として新たに初演。後世に名曲として残る長唄の演奏、改めて能の『安宅』をもとに能の舞台と演技様式などを大幅にとり入れた新演出で演じられました。その後、明治期には九代目市川団十郎により現行の形が作られ、数多くの役者に受け継がれて今に至ります。弁慶と富樫による息詰まる「山伏問答」や詰め寄り、弁慶の「延年の舞」「飛六方」など数々の見どころがある歌舞伎の名作です。
ところで、今では多くの方々は『勧進帳』の舞台が加賀国・安宅の関であることを前提に、歌舞伎を観ています。しかし、能の『安宅』がもとにしたのは室町時代に成立した『義経記』という軍記物語。その中では小矢部川の河口付近の「如意の渡し」という渡し場が舞台になっています。渡守の平権守に義経一行ではないかと怪しまれた際、弁慶がその疑いを晴らすために扇で義経を打ちすえるという機転で、ピンチを切り抜けて無事に乗船できたというもの。もちろんその真偽については諸説があります。『義経記』自体も、後世のいわゆる“判官びいき”から数多くの悲劇のヒーロー伝説を集めたものです。能の『安宅』は「如意の渡し」での一件から取材していますが、いつしか舞台が加賀国・安宅の関に変更されているのです。「如意の渡し」は平成21年まで渡船場として実際に利用されていましたが、伏木万葉大橋の開通に伴って役目を終えたそうです。